幸いな人

イエスの山上の説教の中でも最も有名な箇所と言えます。『8つの幸い』の教えとも言われています。主イエス様は私たち人間の考えとは違う視点で、本当の幸せについて語られました。

まず、今日の本文1節~4節をお読みしましょう。

マタイ 5:1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。5:2そこで、イエスは口を開き、教えられた。5:3「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。5:4悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

私達は今日、3節、4節を見ながら、人が罪から救われ、主と出会う生活を送る恵みの秘訣を知ることができます。それは『心の貧しさ』と『悲しみ』であります。ここでいう心の貧しさとは、経済的に貧乏であるという意味ではありません。また、心が狭くてケチで非寛容的であるということではありません。自分自身の無力さを主なる神の前に痛感し、自分自身により頼むのではなく、ただ主の助けを期待し、望みを置く人のことを言います。逆にここでいう『心の豊かな人』はどんな人のことを言うでしょうか?一つ、例をあげるならば、黙示録に出てくるラオディキア教会の人々を挙げることができます。

3:17あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。

ラオディキアは商業の中心地であり、経済的に裕福な土地でした。そんな中で、彼らは物質的な豊かさに囲まれ、霊的な必要性、霊的な恵みが必要であることに気づいていませんでした。彼らには何より主が必要でした。しかし、その事に気づかずに主の助けを求めようとしませんでした。ここに彼らの頑なさと高慢さがあります。悔い改めることができない人です。

ここに私達は現在の日本の姿をみることができます。東日本大震災、津波と原発の被害。深刻です。解決、まだまだ先です。そんな中で人々の心がへりくだり、主を認めるようになるならば可能性があります。しかし、まだまだです。

自分の足りなさ、弱点を認めるよりは、それを隠し、強がっています。日本の政府の原発への対応を見れば明らかです。我々はこれを非難することはできません。

 

また、悲しむ人はどういう人でしょうか?まず何よりも、自分の罪を嘆き悲しむ人です。罪の問題に真正面から向き合う人、自分の罪性に向き合う人、その中で主の十字架の赦しを確信し、歩む人です。

罪を嘆き悲しむ人に赦しの確信の恵みと幸があります。

 

5:5柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

5:6義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

5:7憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

5:8心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

2番目に、霊的な、信仰の成長の段階です。聖霊様の9つの実りを結ぶようになります。

仙台の教会

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漁師を弟子にする

イエス様がシモン・ペテロを弟子として呼びだす場面です。これは今日の本文によればゲネサレト湖で起きた出来事ですが、この湖はいわゆるガリラヤ湖のことです。ガリラヤ湖は長さ22キロ、幅9.6キロの湖であり、本文にあるように多くの漁師達が漁をして生計を立てている湖でもありました。そのガリラヤ湖の漁師の中でも熟練した漁師の一人がシモンペテロとその仲間であるヤコブとヨハネでありました。今日は彼らがイエス様に出会い、どのように変わっていったのか、見ていきたいと思います。

 

今日の場面は多くの群衆が神の言葉を聞こうとしてイエスに押し寄せてきたところから始まります。

5:1

この時すでにイエス様は多くの奇跡を人々に行い、病気をいやし、大変な評判がありました。そして新しい権威ある教えをする律法の教師としても有名でした。この時もまた、神の教えを聞くために多くの人々が集まってきたのです。そこで、イエス様は自分が人々から押しつぶされないために、あるアイデアを実行しました。

5:3

本文にあるように、イエス様は群衆を岸に残して離れ、舟の上から神の言葉を教え始められたのです。ここで、私達が知るべきことは、群衆と弟子の違いです。主はご自分のご計画を共に成し遂げる弟子を探しておられました。イエス様は群衆と共に歩むのではなく、弟子と共に歩もうとしておられたからです。そしてイエス様はごく自然な方法で弟子と群衆を分けました。これから弟子とするシモン・ペテロの舟に乗り、ペテロや他の漁師達と共に沖へ漕ぎ出し始めたのです。群衆は海によって隔てられ、イエス様に近づくことができませんでした。皆さん、イエス様の傍にいたいでしょうか?いつもイエス様のそばにいたいならば、我々は弟子の道を歩まなければなりません。群衆はイエスの奇跡、イエスの教えを求めていました。しかし、この時、彼らは主の教えは聞くことができましたが、主に近づくことができなかったのです。私達は毎週教会に来ます。そして神の言葉を聞くことができます。しかし、教えを聞くだけに留まるならば、我々はこれ以上イエス様に近づくことは出来ないのです。私達はイエス様に近づきたい、イエス様の傍にいて、その恵みと慈しみに触れたい。そう思うならば、どうか教えを聞くだけで留まらないで下さい。主の教えを聞き、それを実行する者は主の弟子の道を歩む人です。その人は主がご自分を私達に表して下さいます。

ヨハネ14:21

主はこれから弟子としようとするシモン・ペテロにご自分を表そうとしておられました。その偉大な主の臨在、主の顕現は陸の上ではなく、海の上で、そして多くの群衆がもはや近づくことができないはるか岸を離れた沖の上で起きたのです。

それはペテロと他の漁師達の人生を変える、そして歴史の流れを変える一大事件でした。それは陸の上ではなく、岸をはるかに離れた海の上で起きました。

イエス様は更に、ペテロに命じたのです。

5:4

それは沖に漕ぎ出しなさいという命令でした。そして漁をしなさいということです。ここで、私達はあまり知らない漁業の常識があります。一般に魚が数多く生息しているのは岸に近い場所であり、あまり沖に漕ぎ出すと魚が取れないというのが一般的な漁業の常識だそうです。そのことをペテロは良く知っていました。彼はおそらくガリラヤ湖において最もベテランの漁師の一人であったと思われます。そのペテロに主イエスは意外な言葉を語りました。魚が普段はとれるはずがない沖に漕ぎ出し、そこで魚を取りなさいということです。しかも、その日は前日夜通し漁をしたけれども、何も取れない日だったのです。

彼の知る限り、これは今までにない助言でした。ベテランの漁師に大工の息子が助言しました。漁師でもない大工が、なぜそんな助言を漁師にできたでしょうか?

ペテロは、それは非常識だ、そんなことをして取れる訳がない、我々は夜通し漁をして何も取れず、疲れている。放っておいて欲しいということもできたはずです。しかし、ペテロはそうしませんでした。

5:5

ペテロは沖に漕ぎ出しました。そこはペテロが経験したことのない未知の方法による魚取りでした。その方法は常識的ではない、そのやり方では魚は取れない。多くの人々がそう思いました。しかし、その結果は予想したものとはまるで正反対のことでした。

愛する兄弟姉妹の皆さん、皆さんの信仰は岸を離れ、沖へ漕ぎ出していますか?私達は、自分が今まで生きてきた、そして経験してきた岸に近い海辺の生活に慣れてしまって、大きな冒険とビジョンが溢れている人生が沖合にあるにも関わらず、そんな事はあり得ないと無視していないでしょうか?私達が今まで生きてきた人生があると思います。その中で自分なりの生き方を見つけてきたと思います。こうやれば人生うまくいく、こうやれば人生失敗する。自分の人生はここからここまでで勝負する。そんな人生の中にいつの間にか枠を定めてしまっていないですか?イエス様はそのあなたの人生の枠の外にいます。あなたの今までの常識、経験、人生哲学の外にいるのです。イエス様と出会いたいでしょうか?イエス様の奇跡を体験したいでしょうか?今までのやり方、経験、常識の一歩外に踏み出して下さい。ペテロは今まで岸に近い海辺で漁をし、魚を取り、生計を立ててきました。それでも人生は生きてこれました。

皆さんも今まで20年、30年以上生きてきて、それで今まで何とか生きて来られたと思います。人生のルールをある程度見つけたかもしれません。しかし、それをはるかに超えるルールがあります。常識を超えた超常識があります。それがイエス様と出会う冒険の生涯であります。その為には、我々は岸を離れ、今まで経験したことがない沖合に漕ぎ出さなければなりません。

どうか、人生の未知の領域にチャレンジして下さい。皆さんの人生の中でどのように神を見出してきましたか?陸の上で、岸の近くの海辺でイエス様に出会えなかったでしょうか?

ある無神論者はいいました。「神はいない」と。当時、従軍牧師であったエドウィン・オール博士は彼に逆に質問しました。「あなたはこの世界、宇宙について何パーセント位知っていますか?10%位ですか?」「10%どころか、1%も知りません。」「では、あなたの知らない残りの99%の領域に神が存在する可能性はありませんか?」

「論理的にはそうかもしれません。」

私達はこの世界について何%位しっていますか?今自分が知っている世界が全てだといえますか?我々の知らない世界があります。この世界を造られた創造主なる神様がおられ、私達の罪の問題を解決し、永遠の命、天国の確信を与える秘密があります。どうか、今までの人生の枠組みに捉われず、偏見を捨てて、イエスの言葉にしたがってみて下さい。主の言葉に従って沖に漕ぎ出し、経験したことのない新しい領域にチャレンジしてみて下さい。

ペテロは言いました。「お言葉ですから、網を下ろしてみましょう。」疑いながらも、半信半疑ながらも、イエス様の言われる通りにしたのです。最初は確信がないかもしれません。なくても、イエス様の御言葉に耳を傾けて下さい。理解できなくても、とりあえず従ってみて下さい。その時に、私達は神を体験します。

神は理解する相手ではなく、体験する相手です。頭で理解するのではないです。その力と偉大さは信じて従う者が体験できます。どうか、主の言葉に従順してみましょう。今日、今までの常識ではあり得ないように思えても、今日従ってみる、今まで実行したことのない神の言葉を見つけ出してみてください。今までもらってばかりいた人は今度は与えて下さい。今まで憎んでいた人を受け入れ、愛して下さい。自分の人生に不平不満を言っていたならば、今度は感謝してみて下さい。祈った事がないなら祈ってみて下さい。聖書を通してでも、兄弟姉妹を通してでも、この礼拝を通してでもかまいません。一日、一つでも実行する御言葉を見つけてください。自分の常識を超えて、経験を超えて神の言葉を行う者には素晴らしい奇跡が待っていると信じます。

今までの常識を超えて沖に漕ぎ出し、網を下ろしたペテロは偉大な奇跡を体験します。

5:6

5:7

この時、彼らは神の業を体験しました。今まででは考えられない、あり得ない位の大漁の魚を引き上げたのです。これは彼の常識を超える出来事でした。これを見て、ペテロは、今日はラッキーだ、こんなに沢山とれてもうかる。俺はなんて凄い漁師なんだ、と思ったでしょうか?いいえ、何事においてもプロフェッショナルは、何が自分の業によるか、また何が人間の業を超えた神業であるか、分かります。ペテロは、この大量の原因は幸運でも自分自身にあるのでもなく、イエス・キリストに従ったから、また、イエス様が私の舟に乗っていたからだと気づいたのです。彼は人間の業を超えた神の業を体験しました。

その原因は海流でも、漁師達の技術によるのでもなく、ただ主のみにその原因と理由を求めるのです。主がこの船におられるから、主が命じた通りにしたから、素晴らしい奇跡が起きたと、神をほめたたえることができます。私達の人生においても、主は共にしておられます。私達の心に聖霊様として宿っておられます。どうか、主の御言葉に従う時、聖霊様は活発に働き、神の業を次々と行っていると信じます。主の尊いビジョンをいただく事を通して人生が変わり、人々の歩みに重荷を持って生きています。

主の御言葉に従う時、素晴らしい奇跡が起きることを信じて祈ります。私達の生活で、このような素晴らしい奇跡を日々体験する我々になりましょう。

このようにして、ペテロはイエス様の神の業を体験し、その業の源はイエス・キリストご自身であることに気付きました。

彼はあんまりにも自分の考えが浅かったこと、常識を超えた所で主は働かれたことを悟りました。

そして、ペテロは告白しました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」

イエス様に出会うとき、私達は自分が何ものなのか、分かります。私達の日常生活の中で、自分の罪深さに気づくことがどれ位あるでしょうか?『赤信号、みんなで渡れば怖くない』という言葉があります。例え、ルールに反することでも、みんながやっていれば正当化できる。恐れる必要がない。日本人独特の考えです。本当の自分の罪深さは隠されたまま、我々は生きています。しかし、イエス様に出会うとき、本当の自分の姿に気づきます。どうか、私達は御言葉に照らして、自分の罪、そして罪から救って下さるイエス様に出会えるよう祈ります。

ヨハン埼玉キリスト教会

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バビロンの滅亡

バビロンの崩壊についての幻が記されています。私達は聖書全体を通して、バビロンという言葉を耳にすることがあります。バビロンとは象徴的な単語であります。聖書の歴史の中では、バビロンは南ユダを捕囚した新バビロニア帝国を思い出しますが、古代からカルデア人の土地として、現在のイラク付近にバビロン帝国が築かれました。そこはチグリス・ユーフラテス川の豊かな土地の下で大いに繁栄を遂げたのです。しかし、それは神様に敵対する偶像崇拝、あらゆる性的な不品行、乱れた秩序を持った不道徳な社会、物質的な財産が充ち溢れるぜいたくで物質主義的な虚しい国家を意味するのです。バビロンは霊的な意味です。それは全ての時代において、バビロンは存在するのです。悪しき霊はどの時代にもバビロンという国家を作り出し、それを通して人々を惑わし、堕落させているからです。黙示録が書かれた使徒ヨハネの時代はローマ帝国がそうです、かつてのエジプト、アッシリア、ペルシャ、ギリシャ、これらの国は冨と権力によって一時期栄えはしたものの、神の裁きにより滅びているのです。アブラハムの時代、ソドムとゴモラは商業により大きく富み栄えました。しかし、天にまで届く性的な不品行により神の火と硫黄の裁きを受けて完全に滅ぼされました。歴史は繰り返すと言う事です。私達は時代を超えて姿を変えながら存在するバビロン帝国の繁栄と滅亡を見ることができるのです。今わたしたちが目にするバビロンは何なのか?そしてその滅亡はどのように訪れ、私達がわきまえるべきことは何か、3つのポイントから見ていきましょう。

18:1 その後、わたしは、大きな権威をもっている別の天使が、天から下って来るのを見た。地上はその栄光によって輝いた。18:2 天使は力強い声で叫んだ。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。

18:3 すべての国の民は、怒りを招く彼女のみだらな行いの葡萄酒を飲み、地上の王達は、彼女とみだらなことをし、地上の商人達は、彼女の豪勢なぜいたくによって富をきずいたからである。

一つ目に、冨み栄えたバビロンは常に、今も影響を及ぼし続けています。バビロンの影響は世界中に及ぶのです。それは3節にあるように、みだらな行い、ぶどう酒による酔い、そして豪勢なぜいたく、という風に見ることができます。これからクリスマスをいよいよ世界中の人々が迎えようとしています。しかし、現在世界に見られるクリスマスで、本当にイエス・キリストの誕生を喜び祝う人々が世界にどれ位の割合でいるのでしょうか?それはごくわずかであります。ほとんどの人々はある意味『バビロン的クリスマス』を迎えようとしているのです。それは本質を取り除いた形式だけのクリスマスです。そして救い主の誕生という福音のメッセージが取り除かれ、そこには冨と商業主義、物質とぜいたくによって彩られたクリスマス、また人々の不品行とみだらな行いを奨励するような雰囲気を醸し出すクリスマスへと転落されているのです。人々はクリスマス商戦ということで、最後の年末の大もうけを期待しながら商売しています。また若者たちはクリスマスは恋人同士のデートと性的な不品行の絶好の機会として生かそうとしています。この日本においても、イエス・キリストの誕生を祝うべきクリスマスはバビロン的なクリスマスに転落されています。この日本には福音のメッセージが伝わっていないからです。バビロンの王は悪霊どもの王であるサタンです。バビロンは霊的な価値を物質的な価値にすり替えてしまうのです。私達はクリスマスを迎えようとして、バビロンの価値観に惑わされないようにしましょう。冨と商業主義、不品行と性的な堕落によって作り上げられたこの世の繁栄は必ず滅び去るのです。

本文3節を見ると、「葡萄酒を飲んで酔っ払う」「みだらなことをする」「ぜいたくにより富を築く」、この3つの表現により、人々とバビロンとのかかわりを記している。バビロンの事を彼女と表現しています。人々はこのバビロンとみだらな関係を結ぶことで繁栄を得ようとします。バビロンを別の表現で言うならば大淫婦です。大淫婦との関わりは人々を滅ぼすのです。最初は大淫婦の差し出すぶどう酒により酔っ払い、現実感覚を失うでしょう。そしてみだらな行い、ぜいたくな冨にまどわされて人々はまことの霊的な価値、神様との交わりを完全に失ってしまうのです。

アブラハムの時代、ロトはソドムの冨と繁栄に惑わされ、ソドムに住むようになりました。しかし、ソドムの裁きと共にかれは全てを失うのです。この時代のバビロンはローマ帝国でしょう。現在のバビロンは、この日本ということもできます。またアメリカということもできるでしょう。アメリカは最初敬虔なピューリタンのキリスト教精神によって建てられた国でした。しかし、大きな繁栄をもたらしたものの、物質主義と性的不品行が充ち溢れる国になりました。アメリカはバビロンの影響に飲み込まれているのです。そして、今年になり、まず最初にアメリカの経済が崩壊を始めました。それは現在全世界に影響を及ぼしています。日本も含めて、冨と物質主義の影響を受けているあらゆぶ分野が崩壊しつつあります。ローマが滅びたように、アメリカも衰退するでしょう。今現在の経済危機はある意味神様の大きな警告です。冨と商業に基づく繁栄はいずれ終わることを神様が警告しているようです。このままでは日本も同じ道を歩むでしょう。神様とは関係のない豊かさは必ず滅亡します。私達クリスチャンは、このようなバビロンの豊かさとは関係ない道を歩むのです!クリスチャンには神様から来る豊かさがあります。それはイエス・キリストの十字架を通して与えられる罪のゆるしであり、永遠の命であり、喜び、平安、天国への希望であります。私達はバビロンという滅びゆく国に望みを置くのではなく、神の子とされて天国への希望をもってこの地上を生きられることに感謝しましょう。私達はこの世ではなく、天に富を積むのです。天国の冨は決して朽ちず、虫が巣くうこともありません。永遠なのです。世の中では滅びゆく物質主義の国家の土台の元、人々は震えとまどっています。クリスチャンはそうではありません。十字架により、この世から購いだされました。2番目に、私たちは滅びゆくバビロンの影響から身を守る者になりましょう。

18:4 わたしはまた、天から別の声がこう言うのを聞いた。「私の民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。

2番目に、私達は「彼女」から離れ去らなければなりません。離れ去らないと、その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりするからです。ちょうどソドムが火と硫黄により滅亡させられる時、ロトは全力でソドムから逃げなければなりませんでした。後ろ髪ひかれたロトの妻は塩の柱になりました。バビロンから離れないと、その災いの影響が私達にまで及ぶのです。この世の中で私達が冨や快楽に影響されるならば、私達はわざわいの被害を受けざるを得ません。この終末の時代には、すべてがあいまいになります。だからこそ、私達はクリスチャンとしての立場を明確に表明しなければなりません。三浦綾子さんが引っ越しをして新しい土地で住むときに、必ず自分はクリスチャンである事を明確に表明したそうです。自分はクリスチャンだから、お酒は飲まない。そのような地域の集まりにも参加しない、自分は偶像崇拝をしないので、神社やお寺にはいかないし、そこでの集まりにも参加しない。そのように言明すると、多くの人々は良い思いをしないでしょう。しかし、それが自分を罪から守ることになります。偶像崇拝の罪、酒や不品行の罪から自分を守るのです。今は年末であります。社会人にとっては忘年会のシーズンであります。『忘年会』という言葉自体がどれほど福音とは無関係な言葉でしょうか?私達は一年を忘れるのではなく、一年をもう一度思い出しながら、悔い改める事は悔い改め、感謝するべきことは感謝するのです。一年を忘れてしまうことは、悔い改めることができません。感謝することもできません。しかし、実際には全ての一年の出来事をお酒で洗い流すことはできません。その結果は必ず出るのです。私達は忘年会ではなく、感謝会をしなければなりません。私達はクリスマスは教会で厳かに迎え、そして年末年始において、人々が忘年会、新年会で飲んで食べながら過ごすこの時期に、断食祈祷会を迎えようとしています。どれほど私達はバビロンの冨と誘惑から守られているでしょうか?その事に感謝しましょう。教会の役割は何でしょうか?出エジプトにおいて、エジプトに大きな裁きが下る時にイスラエルの人々が守られ、暗闇の中でもイスラエルの民達には光が差していたように、教会には光が差し込まなければなりません。そしてバビロンの偶像崇拝の中でもダニエルと3人の友人は神の道を歩み、光輝いたようにならなければなりません。教会こそはバビロンとい霊的な暗闇の中での希望の光であります。私達は教会という世の中を照らす灯台の中にいます。クリスマスを迎え、また年末年始は断食しながら祈って暮らします。これが私達クリスチャンの恵みであり、特権です。信仰がなければ、私達はクリスマスの商業主義からも、年末年始のあらゆる誘惑からも逃れることはできません。私達はこれから一年をもう一度振り返り、感謝すること、悔い改める事を思い起こしながら祈り課題を準備していきます。そして年末年始断食をしながら、もう一度敬謙に、来年の祝福と恵みを求めて備えていける事に感謝しましょう。そのようにして世の中の影響から離れて、教会はますます世において光輝くと信じます。

3つ目に、私達はバビロンの影響から離れ、この世に富を積むのではなく、天に富を積む生き方を全うする者になりましょう。

18:5 彼女の罪は罪重なって天にまで届き、神はその不義を覚えておられるからである。

18:6 彼女がしたとおりに、彼女に仕返しせよ。彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。彼女が注いだ盃に、その倍も注いでやれ。

神様の審判は明確であります。バビロンの罪は正確に計られています。そしてその罪は重なり天に届いたのです。神様は積み上げられた悪の業も、積み上げられた神の業も正確に計っておられるのです。今、私達は神様の働きをまっとうしようと努めています。その結果は目に見える形ですぐには現れないかもしれません。しかし、神様は私達のしている全てのことを計っておられます。神様は私達のすべてを見ておられます。それぞれの行いに相応しく主は報いて下さるお方であります。

黙示録22:12 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えてきて、それぞれの行いに応じて報いる。

ガラテヤ6:8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈りとり、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈りとります。6:9 たゆまず善をおこないましょう。飽きずに励んでいれば、、時が来て、実を刈り取ることになります。

このように主は必ず私達のすべての歩みを正確に計っておられ、主の業に報いて下さるお方であります。だからこそ、私達は罪の働きが充ち溢れる世の中に影響されず、たゆまず善をおこなう者になりましょう。もし、私達が今だ罪の中にある生活の領域があるならば、速やかに悔い改めることです。ルカによる福音書19章を見れば、ザアカイの話が出てきます。彼は人々からお金をだまし取る罪を犯してきました。彼はお金と権力の中で生きてきた人間です。その時代のバビロンであるローマ帝国の影響を受け、またバビロンのぜいたくな冨によっておごり高ぶって暮らしていた人でした。しかし、彼はイエス様に出会い、今まで築いてきたぜいたく、おごり高ぶりの罪に築きました。そしてその罪の報いは必ずあることにも築きました。そして彼は実際的な行いによって自らの悔い改めを表明しました。

「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施し、また、だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します。」イエス様と出会ったザアカイは悪しきバビロンの影響から離れ去りました。今までの冨とぜいたくによって権力を築く生き方から抜け出し、神の国と救いが訪れました。

バビロンの大淫婦は自らの罪を認めることができませんでした。かたくなに悔い改めを拒みました。

18:7 彼女がおごり高ぶって、ぜいたくに暮らしていたのと、同じだけの苦しみと悲しみを、彼女に与えよ。彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは、女王の座に就いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。』自分の孤独と虚しさを認めることができませんでした。

私達はどうでしょうか?今だに自らの罪を認めず、かたくなに悔い改めを拒んでいる罪の領域があるならば、それに対する主の報いも正確にやってくることを悟らなければなりません。1年ももはや終わろうとしています。この時期に、私達は主がすべての良き業をも、悪しき業をも計られて、報いられることを心に留めながら、一年の悔い改めを速やかに行う者になりましょう。

一緒に祈りましょう。ヨハン教会の吉祥寺支部です。今も霊的なバビロン、大淫婦の働きは世界において、この日本においても力を振るっています。世の中は物質主義や商業主義、性的な堕落で満ちています。しかし、主の時にバビロンは必ず滅亡します。主の審判は必ず来ます。我々はその日を待ち望みながら、悪しきバビロンの冨や不品行の誘惑を避けるように助けて下さい。この世の滅び去る富に惑わされず、天に冨を積む生き方を通して確かな報いを主から受けることができるように助けて下さい。一緒に祈りましょう。

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パウロの律法と福音の関係

今日の本文はどのように始まっているのでしょうか。

ガラテヤ 6:11 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。

この時代、手紙は実際の作者が口で話したものを筆記する書記がいました。だから、パウロも同じようにして、口述筆記でガラテヤ書を書きました。しかし、最後の結末は、作者本人が自分の手で書くことも通例でした。つまり、この本文はガラテヤ書の結論です。今日の本文には、今まで語られてきたパウロの律法と福音の関係の結論が記されています。

パウロは割礼ではなくて、キリストの中で新しく創造されることが重要だと手紙を要約しました。パウロの主張を見ていきたいと思います。12,13節をお読みしましょう。

6:12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。 6:13 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。

ここで、当時のパウロに敵対する人々、ユダヤ主義のクリスチャン達の考えを見ることができます。彼らはイエス・キリストを信じた異邦人に、無理やり割礼を受けさせようとしたと書いてあります。

割礼とは、旧約の律法で定められた、ユダヤ民族であることの象徴的な印です。それは、男性器の包皮に傷を入れるというものでした。これが当時のユダヤ民族の象徴、神の民の印と思われていました。

しかし、そのような時代はもはや終わりました。イエス・キリストが十字架の上で死なれ、その十字架の罪の贖いによって、それを信じる信仰により、全ての人々はユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、神の子とされるのです。つまり、クリスチャンであるために、もはや割礼は必要なくなったのです。

しかし、それでもただ信仰によってクリスチャンである事に満足できない人々は割礼をまだ主張しました。イエス様の十字架プラス割礼もあった方がいいと主張するユダヤ人がいました。そして、当時のユダヤ人から良く思われたい異邦人は、ユダヤ人を意識して、必要もないのに割礼を受ける人もいたのです。

ここで、私たちにとって、割礼は何かということを考えてみなければなりません。

今の時代、クリスチャンに割礼を強要する人は誰もいないでしょう。しかし、私達は、今の時代において、割礼とは何かを考える必要があるのです。

割礼とは何か。それは目に見える証拠です。必要もないのに、神の民であることを主張するステータスです。割礼とは、『真理+α』なんです。

クリスチャンになる為には、イエス様の十字架と復活に対する信仰だけで十分なのに、それに余計に付け加えられた宗教的な飾り、宗教的なアクセサリーが「割礼」なんです。

現代において、私たちにとっての割礼は何か?それは純粋に神の子であることに『+α』を加えるものである。十字架よりももっと目立つ『+α』です。神の子であることに何かを付け加える宗教的な飾りです。

ここにいる兄弟姉妹は筍長や献身者が多いと思います。何らかの役割を持っている兄弟姉妹が多いと思います。私たちにとって、筍長という肩書きか。教職者、献身者というタイトルか。それが私たちにとって宗教的なアクセサリー、神の子であることよりも余計に目立つ飾りになっていないかを気を付ける必要があります。

私達はイエス・キリストを信じて神の子になりました。信じますか?そして、それで十分です。我々は筍長である前に、先生である前に神の子です。しかし、我々は今、筍長であること、先生であることが神の子、キリスト者という肩書きよりももっと大きなものになっていないですか?

イエス様を信じました。洗礼を受けて公に神の子になりました。神は父であります。しかし、信仰生活を送りながら、筍長になりました。先生になりました。素晴らしいことです。しかし、その肩書きが、神の子であることよりも、キリストに結ばれている事よりも、もっと大きく、もっと目だって、強調している信仰生活になっていないですか?

神は牧師の祈りを聞かれるのか?筍長の祈りを聞かれるのか?そうではない。神は神の子の祈りを聞かれる。神の子がイエスの名によって祈るから祈りを聞かれるのです。筍長だから霊性があるか。先生だから、もっと祈りに答えられるか。誤解してはいけません。

平信徒である時にはもっと喜びに満ち溢れていたのに、献身したらもっと霊性が落ちてしまう人、筍員の時には恵まれていたのに、筍長になったら恵みが失われる人、教会の中で見ることがあります。私たち自身がそうかもしれません。

私達は何にもまして神の子であるのに、私達の今いる立場が、肩書きが、純粋な神の子としての父との交わりを妨げていないか。それによって働きが義務化していないか。そこには、自由感が失われていないか。

私達は、自分の今いる立場が、与えられた役職が「割礼」のような間違った誇り、宗教的な飾りにならないように気をつけなければなりません。そして、私達は筍長であることよりも、教職者であることよりも、ただ神の子であることを誇るものになりましょう。

筍長になることは素晴らしいです。献身することはもっと素晴らしいです。しかし、私達は、その立場が、自らの誇りや、権威を示す宗教的なアクセサリーになってはならないんです。そうなった途端に、私達の霊性は落ちていくんです。

私達はただ神の子であること、十字架のみを誇るものであります。信じますか?

6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。

イエスはただ神の子であった。神の子という以外の何の肩書きもなかったんです。神を父と呼びました。親しさと愛の交わりがあった。私達はどうでしょうか?イエスと父との間にあったような純粋な愛の交わりがあるでしょうか。我々はこれを忘れていないでしょうか。

私達は、ここで初代教会の偉大な使徒の働きに目を向けることができます。

使徒 3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」3:7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりした。

ここには、ペテロの使徒としての働きの真髄があります。彼は何ももっていなかったです。学歴も、才能も、地位もなかった。ただ、彼にはイエスの名があった。イエスの名だけがあった。それが全てでした。主の御業が成し遂げられた。ペテロはイエスの御名以外に何も頼らなかった。

割礼は勿論、行いにも頼らなかった。そこには、筍長としての、宣教師としての肩書きもない。

ここに、私達が頼るべきものは、肩書きでも立場でもなく、イエスの名、神の子としての特権しかないことがわかります。

イエス様の十字架のあがないは、私たちから、全ての誇りや行いを取り去る。

エペソ 2:9 (救いは)行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。

だから、私達はイエスの十字架以外に誇るものはない。

私達はどうでしょうか?肩書きや名誉のラベルが付いた信仰者になっていないか。キリストの十字架以外のラベルが多数張られていないか。信仰に『+α』はいらないんです。

イエスの十字架によって、私達はただ神の子となった。神は父となった。我々はイエスの御名によって祈りに答えられるものになった。それで十分です。単純な父と子の関係です。

社長であっても、大統領であっても、自分の子供と遊ぶ時は、全ての肩書きは意味がないのです。ただ父と子の愛の交わりがそこにあります。同じように、私達が主なる神の前に進みでる時に、そこには筍長や先生という肩書きは必要ないのです。われわれはただ神の子として、裸で、何も持たずに天の父の前に進みでる者です。

なぜ、今、私達の信仰生活に恵みがないでしょうか。何故、いつもストレスや目標にしばられて、任された主の働きが義務的になっているでしょうか?それは、私達が神の子であることよりも、任された働きと立場ばかりに心を奪われて、純粋な神の子としての、父との愛の交わりを忘れてしまったからです。

私達はもう一度原点に戻りましょう。クリスチャンとして、神の子としての初心に帰り、父なる神様との恵みを回復しましょう。

続けて、パウロは割礼の有無を問題にするのではなく、新しく創造されるその霊的な原理が大切だと語ります。

6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。 6:16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

16節にある、『このような原理』とは何でしょうか?これは大事なことです。ちなみに古い原理は律法の原理です。

律法とは何でしょうか?それはルールです。神から与えられた命令です。ユダヤ人は神の命令を守ろうと努力してきました。律法学者にとって、律法は義務であり、重荷になりました。

しかし、新しく創造された者(クリスチャン)は、義務や無理やりではなく、心から、喜んで行うようになるということです。これが新しい原理です。律法からの自由です。

律法は神のルールです。しかし、ルールを守っているから、それで救いがあるわけではないです。皮肉な冗談があります。もし、ルールをよく守る人ほど天国に行けるとするならば、どうでしょうか?実は日本ほど天国に行ける人が多い国はないんじゃないでしょうか?しかし、実際は全く正反対の状態です。

律法に頼る人の問題があります。ルールをそこそこ守っているから、自分が正しい人間だと錯覚している。そして自分の罪に気付かない。これが日本の霊的な状況です。ルールを守ることでは救われない。これは律法の限界を意味します。

言われたことを行う人。ルールをしっかり守る人。しかし、『それ以上にはならない』のが問題です。

義務とルールの中で『きちんと、しっかり』生きようとしている人。しかし、決して義人にはなれない。

むしろ自分の罪性にもっとも気付きにくい人になりうる。

日本ほど、ルールやマニュアルが多い国はないといわれます。

学校の校則の多さはすごいです。それを守る人が優等生と言われる。どういう人が優等生ですか?決められた規定から飛び出さない人。迷惑をかけない人。問題を起こさない人。だから偉い人。本当にそうでしょうか?

ルールを守っても、良い行いをしても、それが心からの善い行いか、愛する心があるか。分からないんです。実は本人は義務で、ルールを守るためにやっている。そういう人が日本には多いです。

そこに愛情があるでしょうか?いいえ、言われたからやることです。

ガラテヤ 5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

ルールをきちんと、しっかり守る人は優等生です。しかし、それは愛に基づく実践でしょうか。義務としてルールを守ることで終わる人がどれほど多いでしょうか?

日本もそのような状況があります。親切、誠実、柔和・・・真面目だと日本人は世界的な評価が高いです。

しかし、心からそうしているか、むしろ、表面的、心からの愛には基づかない。

むしろ親切なのは問題を起こさないため。周りの人と、無事に迷惑をかけずにやっていくため、真面目に親切にしている人がどれほど多いですか。

もちろん、ルールは必ず必要です。善悪の基準として必要。しかし、ルールだけで、人は心からの信仰に基づく愛の実践には至らないんです。

私達の周りを見てみたらどうでしょうか?自分がクリスチャンになる前はどうだったでしょうか。自分の生活はしっかりきちんとやっている。しかし、隣にいる兄弟姉妹にジュース一本おごることも気付かない。これこそが傲慢、自己中心です。

ルールを守ることで終わる人。それが心からの愛や情熱に結びつかない人。こういう人が日本にどれだけいるでしょうか?

教会の事務室に差し入れをするということが日本人部には少ないと聞きます。なぜでしょうか?それはルールには書いていないから。それが義務ではないから。

掟やルールじゃないとやらない。義務じゃないとやらない、命令されないとやらない。これが問題です。心からのもてなしや愛、仕える心がなければ思い浮かぶはずもないことです。また、このように言うと、事務室に一ヶ月に一回は差し入れをするというのがルールやマニュアルになってしまう恐れがある。それで、こまめに差し入れするようになるかもしれません。しかし、それは以前厳しく言われたから。その時点でルールや掟になったから。だからやるならば、それは心からの愛の行動ではないです。愛が義務になってしまいました。悲しいことです。

私達は、そういう意味で本当に聖霊に満たされなければなりません。本当の信仰は自主性があります。自発的な愛があります。言われたから、命令されたから、ルールや掟だからではなく、愛する心があるからやることです。これが信仰に基づく愛の実践だと信じます。それが16節でいう、律法に縛られない新しい原理です。

聖霊に満たされた人は、本当に自由です。掟やルールで動くのではなく、心からの主を愛する心で、隣人を愛する心で動く我々になりましょう。そこにはマニュアルもルールもない自由感があります。

ルールにしばられるならば、その時に使役が義務となり、喜びや愛が消えてしまいます。

早天に参加することもそう。義務だからではなく、命令されるからではなく、心から慕い求める心で参加する人に恵みがあります。どんな心で主のために働くか、伝導するか、訪問するか。立場があるから、義務があるからでもなく、心から主を愛するから伝道し、訪問する人に恵みがあると信じます。

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