今日の本文はどのように始まっているのでしょうか。
ガラテヤ 6:11 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。
この時代、手紙は実際の作者が口で話したものを筆記する書記がいました。だから、パウロも同じようにして、口述筆記でガラテヤ書を書きました。しかし、最後の結末は、作者本人が自分の手で書くことも通例でした。つまり、この本文はガラテヤ書の結論です。今日の本文には、今まで語られてきたパウロの律法と福音の関係の結論が記されています。
パウロは割礼ではなくて、キリストの中で新しく創造されることが重要だと手紙を要約しました。パウロの主張を見ていきたいと思います。12,13節をお読みしましょう。
6:12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。 6:13 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。
ここで、当時のパウロに敵対する人々、ユダヤ主義のクリスチャン達の考えを見ることができます。彼らはイエス・キリストを信じた異邦人に、無理やり割礼を受けさせようとしたと書いてあります。
割礼とは、旧約の律法で定められた、ユダヤ民族であることの象徴的な印です。それは、男性器の包皮に傷を入れるというものでした。これが当時のユダヤ民族の象徴、神の民の印と思われていました。
しかし、そのような時代はもはや終わりました。イエス・キリストが十字架の上で死なれ、その十字架の罪の贖いによって、それを信じる信仰により、全ての人々はユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、神の子とされるのです。つまり、クリスチャンであるために、もはや割礼は必要なくなったのです。
しかし、それでもただ信仰によってクリスチャンである事に満足できない人々は割礼をまだ主張しました。イエス様の十字架プラス割礼もあった方がいいと主張するユダヤ人がいました。そして、当時のユダヤ人から良く思われたい異邦人は、ユダヤ人を意識して、必要もないのに割礼を受ける人もいたのです。
ここで、私たちにとって、割礼は何かということを考えてみなければなりません。
今の時代、クリスチャンに割礼を強要する人は誰もいないでしょう。しかし、私達は、今の時代において、割礼とは何かを考える必要があるのです。
割礼とは何か。それは目に見える証拠です。必要もないのに、神の民であることを主張するステータスです。割礼とは、『真理+α』なんです。
クリスチャンになる為には、イエス様の十字架と復活に対する信仰だけで十分なのに、それに余計に付け加えられた宗教的な飾り、宗教的なアクセサリーが「割礼」なんです。
現代において、私たちにとっての割礼は何か?それは純粋に神の子であることに『+α』を加えるものである。十字架よりももっと目立つ『+α』です。神の子であることに何かを付け加える宗教的な飾りです。
ここにいる兄弟姉妹は筍長や献身者が多いと思います。何らかの役割を持っている兄弟姉妹が多いと思います。私たちにとって、筍長という肩書きか。教職者、献身者というタイトルか。それが私たちにとって宗教的なアクセサリー、神の子であることよりも余計に目立つ飾りになっていないかを気を付ける必要があります。
私達はイエス・キリストを信じて神の子になりました。信じますか?そして、それで十分です。我々は筍長である前に、先生である前に神の子です。しかし、我々は今、筍長であること、先生であることが神の子、キリスト者という肩書きよりももっと大きなものになっていないですか?
イエス様を信じました。洗礼を受けて公に神の子になりました。神は父であります。しかし、信仰生活を送りながら、筍長になりました。先生になりました。素晴らしいことです。しかし、その肩書きが、神の子であることよりも、キリストに結ばれている事よりも、もっと大きく、もっと目だって、強調している信仰生活になっていないですか?
神は牧師の祈りを聞かれるのか?筍長の祈りを聞かれるのか?そうではない。神は神の子の祈りを聞かれる。神の子がイエスの名によって祈るから祈りを聞かれるのです。筍長だから霊性があるか。先生だから、もっと祈りに答えられるか。誤解してはいけません。
平信徒である時にはもっと喜びに満ち溢れていたのに、献身したらもっと霊性が落ちてしまう人、筍員の時には恵まれていたのに、筍長になったら恵みが失われる人、教会の中で見ることがあります。私たち自身がそうかもしれません。
私達は何にもまして神の子であるのに、私達の今いる立場が、肩書きが、純粋な神の子としての父との交わりを妨げていないか。それによって働きが義務化していないか。そこには、自由感が失われていないか。
私達は、自分の今いる立場が、与えられた役職が「割礼」のような間違った誇り、宗教的な飾りにならないように気をつけなければなりません。そして、私達は筍長であることよりも、教職者であることよりも、ただ神の子であることを誇るものになりましょう。
筍長になることは素晴らしいです。献身することはもっと素晴らしいです。しかし、私達は、その立場が、自らの誇りや、権威を示す宗教的なアクセサリーになってはならないんです。そうなった途端に、私達の霊性は落ちていくんです。
私達はただ神の子であること、十字架のみを誇るものであります。信じますか?
6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。
イエスはただ神の子であった。神の子という以外の何の肩書きもなかったんです。神を父と呼びました。親しさと愛の交わりがあった。私達はどうでしょうか?イエスと父との間にあったような純粋な愛の交わりがあるでしょうか。我々はこれを忘れていないでしょうか。
私達は、ここで初代教会の偉大な使徒の働きに目を向けることができます。
使徒 3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」3:7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりした。
ここには、ペテロの使徒としての働きの真髄があります。彼は何ももっていなかったです。学歴も、才能も、地位もなかった。ただ、彼にはイエスの名があった。イエスの名だけがあった。それが全てでした。主の御業が成し遂げられた。ペテロはイエスの御名以外に何も頼らなかった。
割礼は勿論、行いにも頼らなかった。そこには、筍長としての、宣教師としての肩書きもない。
ここに、私達が頼るべきものは、肩書きでも立場でもなく、イエスの名、神の子としての特権しかないことがわかります。
イエス様の十字架のあがないは、私たちから、全ての誇りや行いを取り去る。
エペソ 2:9 (救いは)行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
だから、私達はイエスの十字架以外に誇るものはない。
私達はどうでしょうか?肩書きや名誉のラベルが付いた信仰者になっていないか。キリストの十字架以外のラベルが多数張られていないか。信仰に『+α』はいらないんです。
イエスの十字架によって、私達はただ神の子となった。神は父となった。我々はイエスの御名によって祈りに答えられるものになった。それで十分です。単純な父と子の関係です。
社長であっても、大統領であっても、自分の子供と遊ぶ時は、全ての肩書きは意味がないのです。ただ父と子の愛の交わりがそこにあります。同じように、私達が主なる神の前に進みでる時に、そこには筍長や先生という肩書きは必要ないのです。われわれはただ神の子として、裸で、何も持たずに天の父の前に進みでる者です。
なぜ、今、私達の信仰生活に恵みがないでしょうか。何故、いつもストレスや目標にしばられて、任された主の働きが義務的になっているでしょうか?それは、私達が神の子であることよりも、任された働きと立場ばかりに心を奪われて、純粋な神の子としての、父との愛の交わりを忘れてしまったからです。
私達はもう一度原点に戻りましょう。クリスチャンとして、神の子としての初心に帰り、父なる神様との恵みを回復しましょう。
続けて、パウロは割礼の有無を問題にするのではなく、新しく創造されるその霊的な原理が大切だと語ります。
6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。 6:16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。
16節にある、『このような原理』とは何でしょうか?これは大事なことです。ちなみに古い原理は律法の原理です。
律法とは何でしょうか?それはルールです。神から与えられた命令です。ユダヤ人は神の命令を守ろうと努力してきました。律法学者にとって、律法は義務であり、重荷になりました。
しかし、新しく創造された者(クリスチャン)は、義務や無理やりではなく、心から、喜んで行うようになるということです。これが新しい原理です。律法からの自由です。
律法は神のルールです。しかし、ルールを守っているから、それで救いがあるわけではないです。皮肉な冗談があります。もし、ルールをよく守る人ほど天国に行けるとするならば、どうでしょうか?実は日本ほど天国に行ける人が多い国はないんじゃないでしょうか?しかし、実際は全く正反対の状態です。
律法に頼る人の問題があります。ルールをそこそこ守っているから、自分が正しい人間だと錯覚している。そして自分の罪に気付かない。これが日本の霊的な状況です。ルールを守ることでは救われない。これは律法の限界を意味します。
言われたことを行う人。ルールをしっかり守る人。しかし、『それ以上にはならない』のが問題です。
義務とルールの中で『きちんと、しっかり』生きようとしている人。しかし、決して義人にはなれない。
むしろ自分の罪性にもっとも気付きにくい人になりうる。
日本ほど、ルールやマニュアルが多い国はないといわれます。
学校の校則の多さはすごいです。それを守る人が優等生と言われる。どういう人が優等生ですか?決められた規定から飛び出さない人。迷惑をかけない人。問題を起こさない人。だから偉い人。本当にそうでしょうか?
ルールを守っても、良い行いをしても、それが心からの善い行いか、愛する心があるか。分からないんです。実は本人は義務で、ルールを守るためにやっている。そういう人が日本には多いです。
そこに愛情があるでしょうか?いいえ、言われたからやることです。
ガラテヤ 5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
ルールをきちんと、しっかり守る人は優等生です。しかし、それは愛に基づく実践でしょうか。義務としてルールを守ることで終わる人がどれほど多いでしょうか?
日本もそのような状況があります。親切、誠実、柔和・・・真面目だと日本人は世界的な評価が高いです。
しかし、心からそうしているか、むしろ、表面的、心からの愛には基づかない。
むしろ親切なのは問題を起こさないため。周りの人と、無事に迷惑をかけずにやっていくため、真面目に親切にしている人がどれほど多いですか。
もちろん、ルールは必ず必要です。善悪の基準として必要。しかし、ルールだけで、人は心からの信仰に基づく愛の実践には至らないんです。
私達の周りを見てみたらどうでしょうか?自分がクリスチャンになる前はどうだったでしょうか。自分の生活はしっかりきちんとやっている。しかし、隣にいる兄弟姉妹にジュース一本おごることも気付かない。これこそが傲慢、自己中心です。
ルールを守ることで終わる人。それが心からの愛や情熱に結びつかない人。こういう人が日本にどれだけいるでしょうか?
教会の事務室に差し入れをするということが日本人部には少ないと聞きます。なぜでしょうか?それはルールには書いていないから。それが義務ではないから。
掟やルールじゃないとやらない。義務じゃないとやらない、命令されないとやらない。これが問題です。心からのもてなしや愛、仕える心がなければ思い浮かぶはずもないことです。また、このように言うと、事務室に一ヶ月に一回は差し入れをするというのがルールやマニュアルになってしまう恐れがある。それで、こまめに差し入れするようになるかもしれません。しかし、それは以前厳しく言われたから。その時点でルールや掟になったから。だからやるならば、それは心からの愛の行動ではないです。愛が義務になってしまいました。悲しいことです。
私達は、そういう意味で本当に聖霊に満たされなければなりません。本当の信仰は自主性があります。自発的な愛があります。言われたから、命令されたから、ルールや掟だからではなく、愛する心があるからやることです。これが信仰に基づく愛の実践だと信じます。それが16節でいう、律法に縛られない新しい原理です。
聖霊に満たされた人は、本当に自由です。掟やルールで動くのではなく、心からの主を愛する心で、隣人を愛する心で動く我々になりましょう。そこにはマニュアルもルールもない自由感があります。
ルールにしばられるならば、その時に使役が義務となり、喜びや愛が消えてしまいます。
早天に参加することもそう。義務だからではなく、命令されるからではなく、心から慕い求める心で参加する人に恵みがあります。どんな心で主のために働くか、伝導するか、訪問するか。立場があるから、義務があるからでもなく、心から主を愛するから伝道し、訪問する人に恵みがあると信じます。
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